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Eテレでお馴染みの汐見先生に聞く!子どもの非認知能力と金融教育の関係とは?〜後編〜

小学校では昨年から、高校では来年から新しい学習指導要領がスタートします。新しい学習指導要領のテーマは「生きる力 学びの、その先へ」となっており、非認知能力の重要性がこれまで以上に前面に押し出された印象です。

一方、2022年度から高校の授業で「投資信託」に関する内容が盛り込まれることになりました。今後は中学生、小学生にも金融教育が本格化すると予想され、子どもの金融教育の分野はにわかに話題となっています。

今回はNHK Eテレ「すくすく子育て」などにも出演されている東京大学名誉教授の汐見稔幸先生に金融教育と非認知能力の関係について伺いました。

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経済と教育の目的は同じ「幸せの追求」である

Q:お金の教育と、非認知能力とはどういう関係があると思います?

汐見先生:日本の教育では、現実の社会の中で生きていくということを舞台にしながら、そこで必要な知力を身につけていくというものが、あんまり無いんですね。私は「家庭科」だとか「生活科」というのがそうだと思っています。

本来は小学校の教育の真ん中にまず「家庭科・生活科」というのがあって、「生きていく上でこれをやるためには、こうこうこういう知識が必要だから他の教科も勉強するんだ」という風にしていかなければならない。

もちろん、読み書きそろばんというのは大事なんですよ。でも「なんでこれを勉強しなきゃならないのか」と考えると「生活」というものが出て来るじゃないですか。それを端っこの方にある教科のようにしちゃっているのは、これは本当に典型的な本末転倒になっちゃってると思っています。

その理由は、「エコノミー」という言葉から分かるんですね。いまは「経済」とか「経済学」という意味で使われています。この「経済」とは一体何か?っていうことなんですよね。エコノミーの語源は「オイコスノモス」という言葉です。「ノモス」というのは、学問です。知識の体系ですね。そして「オイコス」というのは、今の日本語で言うと「家政(かせい)」なんですね。「家を上手に統治する」ということです。

今で言う家政学はもともと貴族の領主の学問で、一番の目的はやはり稼げるかどうか、みんなを養えるかどうかでした。自分の領地がどのくらいでどうしたら収益を上げられるか、使用人の教育をどうしたらいいのか、彼らの健康を維持するためにはどうしたらいいのか、意欲を持って働いてもらうためにはどういう使い方をすればいいのか、そういうことを初めて体系化したのは18世紀でしょうか。

それが現在では、大学で主に女性がやる学問のようなイメージになってしまって、小さな家の中のチマチマしたことをやる学問のようにイメージされてしまっています。しかし、もともと人間は社会の中で生きていかなきゃいけない、大きな組織のなかで生きていかなければならない。だとしたらその組織をどういう風に切り盛りしてやっていけば、みんながその中でやる気を出して幸せになっていけるか、それを考えるのが上に立つ人間の役割だ、ということで生まれた学問なんです。

OECD(経済協力開発機構)という組織がありますよね。「経済」がメインの国際機関ですけど、子どもたちの学力がどうなっているかの調査は全部OECDがやっているんですよね。最近では幼児教育についての提言なんかも行っている訳なんですが、なぜOECDが学力問題などを扱うのか関係者に聞いてみたら、

「それが経済の意味です」とおっしゃった。「要するに経済というのは、生産・消費といったメカニズムのことだけではなく、人間がどうやったら1つの社会の中で幸せに生きていけるのか、物を買ったり消費したりするやり方をどれだけ人間の幸せに繋げられるかということだから、ある種の上手な経済主体となっていくにはどういう教育が必要なのか、そういうことを全部やります。」

と言っていました。

つまり、物を作って食べたり、必要な服を着たり、住まったり、あるいは近所付き合いを上手にやったりとかいうのは、全部「経済」なんですよ。そしてそこにはすべてお金が必要。どうやったらお金を稼げるのか、困っている人がいた時にどうすればその人たちを助けられるのか、そういうこと全部にお金が必要で、お金を切り口にしながらどうやったら人が幸せになっていけるのかを考えるのが経済学だという風に教えてもらって、「なるほどな」と思ったんです。

アダム・スミスという人がね、『国富論』といって近代の資本主義経済の土台となる著作を書いたんですが、もうひとつ『道徳感情論』というのも書いていて、人間はどうやったら道徳的になっていくのかということを書いていて、むしろこちらの方が主張なんです。彼は、人はどうやったら幸せになっていくかというテーマを、道徳の側面からと経済の側面から書いている。アダム・スミスの頭の中では同じ事を考えているんですよ。ですから、広い意味で「オイコスノモス」「エコノミー」というものをやっている人は「人間はどうやったら幸せになっていくか」を考えていかなければならない。

今、非認知能力の重要性を強く訴えているのはアメリカの労働経済学者のヘックマン教授ですよね。なぜノーベル賞も受賞した経済学者であるヘックマンが教育問題について論じているかというと、先ほど言ったようにもともと教育と経済の繋がりはそういうものだ、というのが念頭にあって、そこで人が本当に幸せになっていくにはどうしたらいいかについて、お金の側面でなく教育の側面から切っているという訳なんです。

VIAの取り組みが、本来の「家庭経済」や「家政」あるいは人が生きていくときの「私にとってのお金」「私にとってのお金の使い方」を考えたり、そういうことを多様な角度から体験して学んでいくということであれば、今の学校教育では充分にできていないところを補えるので、意味があるのかなと思います。

1759年に出版されたアダム・スミスの著作

金融教育は身近なテーマで

Q:家庭で自然にお金の教育を実践するにあたって、親はどうしたらいいでしょうか?

汐見先生:家庭の中で、子どもがいい意味でお金に興味を持ってくれるために、どういう風な文化や会話が必要かっていうのはなかなか面白いテーマで、僕は元々、おこづかいをあげるという文化にすごい興味を持っているんです。

アメリカでは原則そういう文化は無いですよね。お金が欲しかったら働きなさい、と。

知り合いの心理学者がアメリカに行った時の話を聞きました。アメリカ人の知り合いに「息子さんいらっしゃいましたよね?」と聞くと「ああ、いまお小遣い稼ぎに出ている。隣のうちの芝刈りに行ってるよ。この間はガソリンスタンドでバイトしてた」と言ったそうです。

要するに、お金を得るためには働かなきゃいけないんだっていうことを分からせるために、働いてない人間にお金を渡すわけにいかない。日本人から見るとすごくドライな感じ。日本はまだ贈与文化が強い国なので、交換経済というのに対しては、「それじゃ困るんじゃ無いか?」という気持ちがある。それで日本はおこづかいという形で贈与するわけです。

その代わり、「これだけあげるから1週間これで切り盛りの練習しなさいよ」という体験をさせる。「1週間のうち5日目で使い切ってしまっても後は知らないわよ、どうしたらいいか考えてお金を使いなさい」というふうに練習をさせるという点では、おこづかい文化というのは面白いなと思います。

僕は小学生の時おこづかいもらっていました。実は6年生まで1円も使わずそれを全部貯金しました。最初のうちは駄菓子を買ったりしていたんですが、途中で意味ないなと気づいて、竹でできた大きな貯金箱にひたすら貯めていったんです。そしたら中学生ぐらいになった頃には(当時のお金で)2万円になっていました。それで何をしたかっていうと、うちの家庭にはカメラがなかったから、「家族みんなを撮るためにカメラを買うね」といって使ったんです。僕はカメラ小僧だったから(笑)。そういうことをした覚えがあって。それは僕なりの計算があって、「もうどれだけ貯まったかな」とかね(笑)それもひとつのお金の使い方っていうかな。

そこで「いくらおこづかい欲しい?何に使う?」と子どもと色々やりとりして下さい。なんでかって言ったら、家庭という公的な環境の中で、産んだ親が責任を持って必要な物にはお小遣いとは別でお金を出す。だけど自分が勝手に欲しい物に関しては自分で出させる、そういうところの交渉をするんですね。

他には、ガソリンを入れるために、ガソリンが安い店を探すとします。あっちの店は安いけど、店までの往復で数キロ走らなきゃいけない。そうするといくらガソリン代が安くても、結局それは得になっているのかどうか。うちの車は1リッターあたり何キロ走るのかとか、そういうことを子どもと一緒に計算してみると、それは子どもにとっては面白い一種の計算文化になりますよね。つまり限られたお金の中でどうしたら有効に使えるか、という時に、安い物を買いたいけどかかる交通費がプラスになるようなら、子どもに「あなたちょっと計算してみてくれない?」とかさせてみる。

無駄なお金を使いたくないとか、大事なところに投資したいとか、そういう原体験みたいなものを家庭の中で話題にする。

「いまお母さんね、内緒でへそくりしてるのよね。実は将来こういうものが欲しいんだけど、お母さんだけのものじゃないからね、楽しみにしてて」とか、そういうことを話題にするとかね。それからフランスなんかでは学校で株投資の教育をやりますけど、あれも面白いなと思ってね。今社会がどう動いているから、次はどういう会社が伸びそうか、というような会話ですね。

新型コロナの影響でいろんな会社の経営が難しくな っている中で、逆に伸びていっている会社もありますね。世の中がどんどんオンライン化していくと、そのためのノウハウやソフト開発だとか、あるいはそのための(通信機器などの)器具、その原料となる素材関連の会社が逆に伸びていくんじゃないかと。これから時代はそういう風に伸びるんだな、と学んだり。

こういう大変な時にたくさん稼いだ人は、大変なところに贈与してあげたらいいのにな、とか、たくさん儲けたから偉そうにするって人としてどうなのかな、とか、そういう話が家庭の中で議論できると面白いなと思いました。

世の中をみるときに、かなり冷めた目というかな、冷めた眼差しで、お金とか財政という物を切り口にすると見えてくる物があると思いますね。

先生がご自宅で育てているパッションフルーツ

Q:ぐうたら村での活動内容を教えてください。

汐見先生:私は幼稚園の先生や保育園の先生、子ども園の先生、そういった幼児教育に関わる先生たちが、「ここにくると原点に戻るよね」という学びの場があったらいいな、ということを長年思っていたんですね。

それは何かっていうとね、結局保育者というのは人間を育てていく営みですよね。色んな可能性を持った人間を、表面的に「ああできる、こうできる」ということじゃなくて、心の深いところからしっかりしたところから育てていくというのは、とっても大事な仕事なんだよね、と。でもその子どもたちが30歳、40歳になって生きていく世の中っていうのは、課題だらけの世の中になっていると思うんですよね。たまたま今SDGsがすごく言われていて、「持続可能な開発」っていいますけど、僕らは「開発」とか「発展」を応援しようというんじゃなくて、「持続可能な」という点がすごく大事だよね、と。

だから僕らは持続可能な生き方を学ぶというか、持続可能な社会を本当に作っていくために、私たち自身はどういう風に考え方を改めたり、どういう価値観を持って行くことが大事なのか、ぐうたら村はそういうことを学ぶことができる場なんです。

そして、「人間が育つということ」「命を輝かせるという事はどういうことなのか」ということを、自然体験の中で考え続ける。そうすると表面的にではなく、もっと子どもの心の深いところで喜ぶような、僕らは「命が喜んでる」と言いますが、そういう保育ってなんなのかということを、みんながあれこれ考え出すようになっていくんです。

ぐうたら村では夕方になると大きな焚き火を囲んで参加者同士語り合うということをよくやるんです。そうすると、例えば保育園のことを論じたり、子どものことを論じたり、お母さんの事を論じたりするのと、自分とは違う発想が出てくるわけ。自然の中にいると自分の心と体の中のもっと深いところが癒されたというか、そこが共鳴したというか、そういう時に私たちの脳の深いところが活性化しているんだと思うんですね。そういうような命の活性化みたいなことが起きた時に子どものことや保育のことを論じると、「なんか変なことにこだわり過ぎたのかな」とか「子どもが素直に良い顔してくれると、それだけで本当は良いのかもしれない」とか、色んなことが見えてくるんですね。

それで、僕らがもう忘れてしまったような、例えば「石ころさんが笑ってる」とか「あの石ころ、ひとりぼっちで寂しそう」とか子どもが言う。それを大人が「あら面白いわね」とか笑うけど、それは違うんです。あらゆるものに命を感じる、そういう方が実は人間として深いと思うんです。

だから共存とか共生ができるわけです。あらゆるものに命を感じなくなって、すべてただの儲けの対象かどうかしか見ないというようになってしまうと、人間までもそういうふうに見るようになってしまう。

子どもは実はこんなことに喜ぶんだとか、子どもはこんなことに感動するんだとか、そこを教えてもらうことによって、私たち自身がもう一度人間を取り戻したいと言うかな、そういったことを体験的に学べる場というのが、ぐうたら村でありたいと思っています。

いまはコロナで参集できないんですが、そのうちにここへ来てみんなで語り合うとか、森を歩きながら自然がお互いに共生しあっている中で何を見つけたか語り合うとか、そういうようなことをやっていると、明日明後日の保育にすぐ役立つノウハウは手に入らないかもしれないけど、自分の中で「なんかこの仕事やっててよかったな」と思えるというかね。そういうものが徐々に育っていくような、そういう研修の場にしたいと思っているんですね。

受験問題は今後変わっていくだろう

Q:最後に、子育て世代に応援メッセージをお願いします。

汐見先生:これからの学校も、かなり大きく変わっていくということが予想されているんですね。例えば、ヨーロッパの国々なんかでは、僕らが「トーク&チョーク方式」と呼んでいるような、先生が黒板の前で教科書を使って板書をしてノートを取らせて、「ちゃんと覚えておくんだよ、試験するからね」とやるような、そういう授業はもうほとんどやっていませんね。もしやっていたとしたら「古い授業やってるねぇ〜」ということになります。

逆にこれは日本で小学生に行った実際の話ですけどね。例えば「今日はお花の勉強をしましょう。なんでお花はこんな綺麗な色をしているんだと思う?」といった問いを出すとします。

「ああだ、こうだ」と話し合ったけど結局「わからない」と生徒たちが答える。すると先生が「分からない時はどうやって調べたらいいと思う?」と考えさせます。すると子どもたちから「調べる。花屋さんに行ってみる」という案が出て来た。「あっちの花屋さんに聞く」「こっちの花屋さんにも聞く」と。実際に別れて聞きに行ったら、Aの花屋さんでは「そんなことは私たち分かりません」と言われ、Bの花屋さんでは難しいことを言われてよく分からないまま戻って来た。結局、花屋さんでは答えが分からず、そこで先生が再度「じゃあどうやったら調べられると思う?」と考えさせる。「図書館で調べる」と言うので次に図書館に行ってそういう本を探してみることにした。図書館の司書さんから「この本がいい」と花の生殖の本を渡される。それを読んだ結果、花というのは子孫を残すために雄しべにある花粉を雌しべにくっつけないといけないんだけど、自分ではできないんだと。そこへ虫が飛んできてくれて、花の蜜をあげる代わりに花粉を雌しべにくっつけてもらって受粉する。だから全部虫が手伝ってやってるっていうことなんだ。だけど虫は、そこに花があると認識するには視覚の限界がある。虫の目っていうのは色のことはよく分からないんだよね。ある虫にはピンクしかわからない。ある虫には赤しか、ある虫には紫しかわからない。

ということで、目立つ色をしていないと虫さんが来てくれないんだ。花は虫さんを集めるために綺麗な色をしている、そういう花が生き残っている、そういうことがやっとわかった、という話ですね。

そういう勉強をしていると時間はかかるかもしれないけど、それに付随していることも分かるわけ。地球上の受粉の7割はミツバチがやっている、ということがわかる。木も全部。

でもそのミツバチが世界的に大量死している。それはどうも人間が撒いている除草剤がミツバチの生殖能力を無くしてしまう作用があるらしいと。今ではほとんどの国がその除草剤を輸入禁止にして使用しないようにしているんですが、今度はタイも禁止し始めたんですね。でも日本だけ禁止していないんです。だからメーカーは、「日本に売り込めー!」と言って、どこのスーパーにも並んでしまっている。タイは日本のイチゴをたくさん買ってくれている国なんですけれども、その除草剤を使った物は輸入できません、と決めたんです。そこでいま宮崎県あたりのイチゴ農家さんが困ってしまっているんですね。で、日本でもその除草剤を使わずに別の方法を考えなくてはいけなくなっている訳ですが、いずれにしても、大量にミツバチが死んでいってしまっている。朝起きたら巣の中に一匹も残っていなかったということがあちこちで起こっているんですね。もし地球上からミツバチがいなくなってしまったら、瞬く間に地球は命を維持できない星になってしまう。我々も全部死んでしまいますね。木もなくなって、虫もいなくなってしまうということですから。だから、温暖化も大事だけど、それと同じくらいミツバチのことも大事、もっと大事かもしれないんだ、ということを合わせて学ぶじゃないですか。

そういう風に、「トーク&チョーク方式」じゃなくて、ワークショップ方式で学んでいくという教育に世界中で切り変わっていっている訳です。そうやって学んだ物は社会に出てもそのまま使える訳ですよね。認知能力もそうだけど、非認知能力もセットにした学習の仕方をやってきています。

今後、求められる能力とは

汐見先生:そこで実は日本の学校も、2021年度から中学校でもそういう学習をたくさんやろうと、学習指導要領が変わったんですね。2020年度から小学校も変わったんです。高校入試や大学入試の問題もだいぶ変わってくるんですよ。そうすると中学入試の問題も変わってくるんですよね。

例えばですが、「カップラーメンは全国で1日に何個くらい食べられていると思いますか?」というような問題が出たとき、どうやって考えたらいいんでしょうか。「例えばうちでは何日に1回くらいは食べてるな・・・」とか「みんなのうちではどうかな、一家に4人いるとして平均すると・・・」とか考えると、そうすると「この子は数字ができるな」となる。

そうなると入試問題も、型にはまったような知識や解き方を求めるような入試問題から、正解はないんだけども臨機応変に自分なりに考えて答えを上手に導き出していく方法っていうかな、非認知的なスキルがものすごくまぶされたような認知的スキルというかな、そういうことを問うような問題に少しずつ変わっていくと思います。

ですから、認知的なスキルはこれからももちろん大事なんだけども、わいわいがやがやしながら「やっとわかった!」というようなことがとても大事になりますね。中学受験や高校受験の準備も、いわゆるペーパーテスト的なものをやるだけというのは少しずつ主旨と変わっていくと思うんですよね。だから、「実はこれって面白いよね」と親自身が思えるような、そういう受験勉強を皆さんで情報交換しながらやってあげて頂きたいし、そういう新しいタイプの塾もどんどん出てくると思いますので、アンテナを立てておかれたらいいと思います。

企業も、いわゆる認知的スキルを測って伸ばしてきたような教育を受けて来た人たちは必ずしも採用しなくなっていきますよね。社会全体が新しいものを生み出していかないともう商品開発はできないっていうかな、どこにでもあるものを新たに提案してもしょうがない。他の国にあるものを改良してもっと良くするというのが今迄の日本のやり方だったけど、それも終わってしまった。社会と人間を見ながら「こういう商品が必要なんじゃないか」と思いつくような力、そういう力を持っている人を採用したい訳です。だから点数・偏差値・有名大学ということでは採らなくなっていくということですよね。そういう教育がこれから大事になっていくという流れが、隅々にまで広がっていくということも想像しながら、大事な子ども時代を過ごさせてあげて頂きたいと思いますね。


前編では、これからの時代を生きる上で必須の非認知能力」を詳しく教えていただきました。
前編を読む


プロフィール

汐見稔幸(しおみ としゆき)

所属:一般社団法人家族・保育デザイン研究所 
肩書:東京大学名誉教授・白梅学園大学名誉学長・日本保育学会理事(前会長)・全国保育士養成協議会会長 

専門は教育学、教育人間学、保育学、育児学。自身も3人の子どもの育児を経験。保育者による本音の交流雑誌『エデュカーレ』編集長でもある。持続可能性をキーワードとする保育者のためのエコビレッジ「ぐうたら村」を建設。NHK Eテレ「すくすく子育て」など出演。 

最近の主な著書:『「天才」は学校で育たない』2017年(ポプラ社)、『さあ、子どもたちの「未来」を話しませんか』2017年(小学館)、『汐見稔幸 こども・保育・人間』 2018年(学研)、『0・1・2 歳児からのていねいな保育 全3巻』2018年(フレーベル館)、『保育者のためのコミュニケーション・トレーニング BOOK』2019年(ぎょうせい)、『これからのこども・子育て支援』2021年(風鳴舎)ほか多数。

ぐうたら村HP
https://gutara-v.net

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